PINEBULL_2023
5/270

i 3ngisedONARUM(旧姓 Felice"Lizzi"Rx)上野 リチSPECIALFEATUREヨーゼフ・ホフマンオーストリアの建築家、デザイナー。ウィーン分離派創立メンバーの一人として後のバウハウスやデ・スティルといった20世紀のデザイン運動に大きな影響を与えた。20世紀始めにウィーン工房を主宰。上野 伊三郎京都の宮大工の家に生まれる。早稲田大学で建築を学び、卒業後、単身ドイツに渡りベルリン工科大学、ウィーン大学で学び、ヨーゼフ・ホフマンの建築事務所に勤務する。在職中にリチと結婚。村野 藤吾唐津市生まれ。早稲田大学建築科を卒業後、大阪の渡辺節建築事務所入所。綿業会館等の設計に携わり独立。92才で亡くなる当日まで仕事をする。日本芸術院会員。文化勲章受賞。日本生命日比谷ビル内 日生劇場レストラン〈アクトレス〉壁画:上野リチ1963年1926年、上野伊三郎・リチはウィーンから帰国し、京都に「上野建築事務所」を開設。リチも美術工芸部主任として伊三郎の仕事を支えてゆく。この事務所で、1927年7月「日本インターナショナル建築会」が結成され、ブルーノ・タクトやヨーゼフ・ホフマン他、国内外から計23名の会員が加わる。機能性や合理性に基づくいわゆるモダニズム建築を目指しながら、日本の気候風土にも適する独自の姿勢を表現し活動した。リチはウィーンと京都をしばしば往復するものの京都が活動の拠点となった。工芸品の制作に従事するほか、「リックス文様」をプリント服地や壁紙として制作・販売。そうした文様を目にした村野藤吾は、しばしば自身の建築内装に採用した。ウィーンの富裕な事業家の長女として生まれる。幼い頃から動物や植物を愛した彼女は、やがて憧れのウィーン工芸学校に入学。同校の教授職であったヨーゼフ・ホフマンに師事して、幼児や児童の美術教育にも関心を寄せていた。工芸学校を卒業後、ウィーン工房に入り、ヨーゼフ・ホフマン門下のデザイナーたちに刺戟を受け、テキスタイル・陶器・ガラス・七宝図案など幅広いジャンルに新作を発表してゆく。とりわけプリント図案は「リックス文様」とも呼ばれ高い評価を得た。32歳のとき、ホフマンの建築事務所にいた上野伊三郎と結婚。その後京都に移り住み制作活動を広めた。京都に「上野建築事務所」を開設村野藤吾が認めた美術工芸家追求し続けた独創的オリジナリティの道 

元のページ  ../index.html#5

このブックを見る